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【その3】
vol.14(蘇州)
中国、蘇州の街角です。 上海、蘇州、杭州、南京のあるあたり、揚子江河口付近にひらけたデルタ地帯を江南地方というそうで、広い中国のなかでも古くから開けた地域として知られている。 とにかく気候が温暖で肥沃な大地、豊富な水資源に恵まれて、豊かな地域といえるのでしょう。 蘇州もそんな地域にあって古い歴史をほこる街なのですが、 私の目からみて目立ったのは運河です。 どうやら運河のネットワークは、街路と同じくらい発達しているようです。 普通市街地のブロックを区切るのは道路ですが、この街では道路と運河が交互に街の区画を区切っている感じ、そんな風に言ってかまわないと思いました。 自動車交通のなかった時代、物を運ぶには運河を走る船が有利でしたから、このような街の形が出来たのも、条件のそろった当地ではうなずけるものがあります。 写真はこうした運河のひとつ、それもごく末端のありふれたところをねらって撮った風景です。 水はあまりきれいとはいえませんが、船に行き来のほかにも日々の洗い物などに利用されています。 向こう側に写っている道路の路面排水でしょうか、排水管とおぼしき口も見えています。 水の様子から推測するに、生活排水も捨てられているのでしょう。 いわば下水路でもあるわけです。 平坦な地形ゆえに流れを感じることがありません。 だから汚れた水が流入するとたちまち運河も汚れる。 それでも工場排水などの有害な成分がなく、市街地の面積あたりの排出量が少なければ、腐敗臭を放つところまではいかないのでしょう。 ここ以外も見てまわりましたが、そこまで死んだ運河はほとんど見られませんでした。 写真の程度におさまっていると見ました。 見た目はきれいとは言えませんが、コイやフナなどはいるはずです。 画面ではわかりにくいのですが、河鵜 (かわう) がいるくらいです。 場所によっては鷺 (さぎ) の姿も見えました。 統計ではこの街も人口は百万人規模とか。 郊外ではもっと汚染のひどい場所もあろうかとは思いますが、多分下水道施設はさほどいきわたっていない模様で、それを考えれば街の規模のわりにはまずまずの水だと思いました。 市街地1へクタールあたりの水面積はかなり高いと思われますので、夏期の市街地での気温上昇 (ヒートアイランド現象) が起こりにくい街のつくりになっているはずです。 古くからこの地方の中心都市であり続けた理由は、こうした基礎的な住みやすさに負うところが多かったと思われるのです。 こんな薀蓄をあれこれ傾けさせる街の風景です。
vol.15(上海)
一昔前まではずっと上海を代表する風景のひとつだったはずの一枚です。 かつて “華人と犬は渡るべからず” と書いてあったことで知られる外白渡橋が手前に、その向こう岸にブロードウェイ・マンション (上海大厦) が聳えたつ風景です。 この街に各国の租界があったころから変わらぬ風景だったはずです。 ここで、私が取り上げたいのは写真右側の建物です。 ブロードウェイ・マンションが近代建築に見えるほど古風なつくりの4階建ての洋館です。 これもやはり租界時代からの施設で、国際海員クラブ のビルです。 私が上海を訪れたのは1986年の正月だったのですが、このとき滞在したのが上海大厦でした。 隣の建物が気になって近づいてみて、それとわかった次第。 ここはかつての高級船員さんたちの社交の場であったとみえ、宿泊施設でもありレストランやバーなども入っていた。 訪れたそのときもバーは健在で、わざわざカウンターに陣取ってみました。 重厚で磨きのかかった年代もののカウンターです。 その長さでは有名な錦江飯店のバーにこそかないませんが、古めかしさと重厚さはひけをとらないと思います。 欧米人の体格に合わせたサイズなのでしょう、結構高いカウンターでした。 当時は中国の高度成長がはじまる直前の時期だったのしょうね、外灘公園で太極拳に勤しむ年輩の方(おじいさんと言ったほうがよい)の言葉によれば、このあたりの風景は、租界時代から60年以上ほとんど変化がないとのことでした。 この一枚もそうした風景の一部を切り取ったものといえます。 現在、地下鉄が整備され、対岸に巨大都市が出現していますし、旧来からの外灘もライトアップの演出などが加わって様変わりしたように聞いています。 この場所も現在どのようなことになっているのか、近いうちに調べて対比させてみるのも面白いかと思います。 地理的にはこの二つの建物の奥の方に広がる一帯が、日本人が多く暮らしたといわれる地区になります。 魯迅先生の旧居などもあります。 ゆっくり歩いてこれらをまわってみました。 言うまでもなく上海は中国最大の都会ですが、租界時代の中心部はおおむね徒歩でまわれる範囲にかたまっていました。 4000年とも5000年ともいわれる中国の歴史のなかで、上海は新しい街です。 アヘン戦争以前はちっぽけな漁村にすぎなかった点で、香港と同じ生い立ちです。 列強の租界建設から街がはじまったという側面があり、ここは街の原風景といっても過言ではないと思います。 欧州、米国、ロシア、そして日本人など人種の坩堝と化していた当時の上海がしのばれる一画を記録した、私のお気に入りの風景です。
vol.16(北京)
北京市内をはしる路線バスの車内を写した一枚です。 私の北京滞在は、故宮からみて北西にあたる北京動物園の近くだったので、動物園前のターミナルや北京西駅からのバスに乗車することが多かった。 このあたりから街の中心に向かうバスの乗ると、乗り換えなしで故宮の北へ着きます。 だからこのときも故宮の見学は北側の入口から天安門広場で南下しながらの順序となりました。 当時、北京市の地下鉄は 北京駅 を中心に東西にはしる1号線だったでしょうか、その一路線しか出来ていなかったことと、タクシーが普及していなかったのとあいまって、市内の移動手段はバスが圧倒的でした。 写真は立っている人もまばらな、空いた状態ですが、朝夕はすしづめでした。 バスはまだ旧式の車がほとんどで、車掌さんが切符を売る形式です。 写真右端、ブルーのシャツをきた人が車掌さんです。 混雑がひどいときは運賃をまわりのお客さんがパスしてくれて、切符もパスで戻ってきました。 私など言葉の出来ない外国人は目立つので、まともに行き先など言わなくとも適当に処置してくれました。 そもそも終点まで乗っても10円〜15円です。 これを二区間乗ると、北京市の外れから反対側のはずれまで行けるような具合でした。 写真の中国製のバス(旧式のタイプ)は、馬力もなく加速が鈍い。 発車してしばらくはあえぎあえぎの感じで加速し、車体がミシミシ音を立てます。 木製の床から油の匂いが漂う、懐かしい車内の風景です。 市内にはこれとは別にミニバスも走っていて、こちらは日本製のマイクロバスです。 15から20人乗りで、座席の数しか乗せません。 性能も良いので目的地にはかなり早く着くことが出来ます。 但し運賃は通常のバスの5〜8倍もします。 北京滞在中、私は極力写真のような路線バスを利用しました。 ここまでバスにこだわったのには理由があるのです。 北京滞在のお世話になった科学院の先生が、空港まで出迎えにきてくださったのですが、市内まであたりまえにタクシーを使いました。 当然、先生も一緒です。 ホテルの部屋におちついたところで、先生はタクシー代を私が払ったことに対して御礼を言うのです。 そして、 「タクシーに乗ったのは二度目」 だとおっしゃる。 一度目は、かつて産気づいた奥様を病院に運ぶときだったそうな。 先生はさらに市内見物の案内をしてくれましたが、その都度路線バスの番号をメモしてくれます。 北京大学でも教壇に立つ先生のご案内です。 ここは何があってもすべて市内はバスで、そう心に誓って、翌日からの市内歩きに臨んだのです。 ついでに万里の長城へのバス旅行も地元のバス便を使うことが出来、おそろしく安上がりになったというおまけまでついてきました。 郷に入ったら郷に従え、をそのまま実践したときの証拠写真でもあります。
vol.17(広州)
「食在広州」 食は広州にあり 二度目の広州訪問のときの一枚です。 広州での泊まりはなんといっても珠江のほとりがいいという思い入れがあって、このときはかつての華僑大厦にしました。 このときホテルには別の名前がついていたとだけは記憶しているのですが、肝心の名前が思い出せません。 それはともかくとして、荷物を部屋において、さっそく市内散歩に出ました。 川沿いをゆっくりと沙面島に向かって。 写真集のページでも少し説明しましたが沙面島というのは、アヘン戦争後に英仏租界の置かれた場所で、川と運河に囲まれた島になったところです。 形は長崎の出島とよく似ていますが、規模はこちらのほうがずっと大きい。 洋館の立ち並ぶ島の町並みを眺めて散策し、ホテルで冷たいものなどを飲んで一休み。 そんなのんびりした歩き方です。 島の北側にかかる橋を渡って市街地に入り込む何本かの路地のひとつに、清平路があります。 知る人は知ている、丹念に読めばガイドブックにも出ている自由市場です。 華南地域の中心都市であり、広い中国でも屈指の大都会、広州のことですから自由市場もここだけではないのですが、特にここは副食品、つまりおかずの材料になるものを中心に扱っています。 しかも食材の鮮度にこだわり、悪食(ゲテモノ食い)でも知られる広東人の食品市場です。 鮮度にこだわるということは、野菜類は別ですが、肉や魚などはできる限り生きた状態で売られています。 牛などのように消費者が自分で処理することの難しいもの以外は基本的に生きた状態で陳列されているので、さながらペットショップか動物園の状況です。 写真はイヌ、ネコ、うずら、ハムスター(に見えた)などの小動物です。 繰り返しますがここに写っている可愛らしい動物君たちは食品です。 このほかにカエルやカメ、ヘビやトカゲ、ねずみ、アルマジロまでかごに入って並んでいました。 ブタとヤギもつながれていました。 子供と遊んだりしています。 自分で歩ける食材は連れて帰るようです。 また、希望すればその場でさばいてもくれるようで、ここに来るには心の準備も必要だと思います。 この近くには十三行路といって、アヘン戦争時代に外国との取引を許された商人の広壮な店舗が並んでいた通りもあり、この街の歴史がよくわかる一帯でもあります。 あっちへふらふら、こっちへぶらぶら、ざっと3時間ほどつぶしたでしょうか、このような街歩きが好きでたまりません。
vol.18(マニラ)
フィリッピンの首都マニラで撮影した一枚です。 市郊外のなんでもない書店で、ナショナルブックストアーの外観を撮ってみました。 フィリッピンはおよそ100年ほど前の米西戦争 (アメリカとスペインの戦争) の結果、スペイン統治から米国とうちに切り替わった。 フィリッピンが受けた植民地支配の特徴について、よくこう言われる。 スペインはフィリッピンに信仰を持ってきた、アメリカは教育を持ってきた。 スペイン人は世界各地の植民地支配のなかで、人の定着度といったらいいのか、現地への溶け込みの度合いのようなものが高く、ホントにスペインから移住して住み着く例が多いという伝統がある。 植民地経営の姿勢において、英国やフランス、アメリカとは一線を画しているように思われます。 だから、現地に住んで混血をはじめる。 中南米などでも同様である。 ポルトガル人も同じラテン系の民族なので似たような傾向があるようですね。 フィリッピン統治に話を戻すと、アメリカは学校建設にずいぶん力をいれたといいます。 特に初等、中等教育に顕著で、全国にアメリカ式の小中学校、ハイスクールを建設し、英語による教育を普及させた。 現在、フィリッピンはアジアで最も英語力の高い国のひとつとなっている。 質的にはシンガポールに一歩譲る面があるかも知れないが、日常生活で英語を使う人口でいえばはるかに圧倒している。 聞きかじりの情報ですが、ハイスクールから上の学校では、英語で講義をしているという。 フィリッピンの人々があたりまえのように英語を話す理由はこのあたりにあるのでしょう。 もうひとつ、米国流を感じるのが商業。 写真のような商店が郊外にかなりあります。 街の中心から少し郊外に出たあたりに立地し、規模の大きい駐車場を完備したショッピングセンターを時折見かけます。 写真はそうしたスタイルの代表的な店舗で、一見すると米国本国やハワイ、グアムなどで見かけるお店となんら変わりがありません。 しいて違いらしきことをあげれば、路線バスやジープニーの発着所が併設され、自家用車を持たない人々にも利用可能なようにしてあることくらいでしょうか。 先のコラムで紹介したように、熱心なカトリックの信仰とともに現在のフィリッピンの生活を特徴づける姿に見えてこの一枚を選んでみました。
vol.19(香港)
写真は英国直轄植民地時代の香港、九龍尖沙嘴の街中で撮影したものです。 アヘン戦争の結果、香港が英国に割譲されたのですが、ここは対岸の九龍半島。 記憶に間違いがなければ、九龍半島の尖端部分は香港島とおなじく割譲された地域になります。 南に突き出た半島の付け根のあたりを東西にはしる道路があります。 界限路とかいったかな、 そこまでが割譲区域で、その北に広がる区域は新界といって、追加条約で99年間の期限付きで租借した地域となります。 割譲地域と租借地域をあわせて普通に香港と呼ばれています。 写真は割譲地域のうち、九龍半島の尖端付近の街角ということになります。 地名は尖沙嘴。 嘴 (くちばし) のように尖った砂ばかり場所という意味です。 昔はそんな風景だったのでしょう。 現在は香港でもっとも賑やかな地区のひとつです。 街路の名前を表示したプレートです。 Cameron Lane とあります。 これは英国風の名前をつけたものだと思ってカメラを向けたものです。 英国の統治なのだから香港では通りの名前にも英国流が幅を利かせている。 女王陛下にちなんだネーミングが目立ちますね。 ビクトリア、クイーン、エンプレス、などの文字が躍っています。 通りや街路をあらわす言葉もこのレーンのほかにもロード、グローブ、ウォークなど、本国と同じように使われています。 1997年に中国が主権回復、つまり返還されたのですが、このとき通りの名前を変えるべきかどうかでモメたというニュースを耳にしました。 人民の中国にクイーンはふさわしくないという理由だったと記憶しています。 それでは開放路とか人民路、中山路 (中山は孫文の本名:孫中山からきている) に変更するのもピンとこない。 結局、社会制度を当面50年間は変えないという英国との約束もあることなので、変更されることはなかったそうである。 私は、何度となく香港を訪れていますが、最後の訪問でも1996年です。 返還後は行っていません。 機会がなかったことと、新型肺炎の流行で二の足を踏むなどしてそのままです。 地元、香港人々は宗主国の付けた名前と同時に中国名でも通りを呼んでいますので、さらに人民路などに代わった日には混乱もあるのでしょう。 この一枚をカメラに収めたこのころまで、香港では広東語が横行していました。 住民の大半が広東出身者ですから当たり前なのですが、返還後はその香港人の間で北京語の学習がブームになったと聞きます。 市民の使う言葉もやがて標準語とされる北京語が主流になっていくのだろうと思います。 これからもゆっくり変化を続ける街の一断面を切り取ったつもりの一枚でした。
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