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vol.8(ハバロフスク)
これも私のパターンに則って撮影した一枚です。 マーケットです。 場所はハバロフスク市内、シベリア鉄道のハバロフスク駅から程近い場所にあったと記憶しています。 時期は古いです、1987年の4月にはいったばかりのころで、旧ソ連時代のゴルバチョフ書記長の時分のものです。 当時は世界中からソ連邦の経済破綻が指摘されていたので、そういう国のマーケットってのがどんな状態なのかと怖いもの見たさも手伝って吸い寄せられるように足を運びました。 後ろの横長の建物がマーケットの本体施設です。 内部は天井の高いガラーンとした空間が広がっています。 中国でもよく見かける共産圏に特有の、立派だけれど無駄の多そうな様式です。 個人営業の雑多な品目を扱っています。 食料品から家電、衣料、家具、までありとあらゆる品物が売られています。 手前は建物前の広場で営業する屋外ブロックです。 建物内に食料品と家電、家具などがあって、屋外はご覧のような衣料品やマキ、掃除道具のような日曜雑貨などの店が配置されているといったあんばいです。 このときの第一印象は、結構品物が豊富で、それを買って行く人も多いということ。 経済破綻が嘘のような気分でした。 そして買い物客の服装を見ての感じとして、決して貧乏人に見えないことでしょうか。 4月はじめのハバロフスクは日本の真冬以上に寒い時期で、市街地に隣接して流れるアムール河は全面結氷して、氷の上をトラックが走っているような状態です。 だから個々に写っている皆さん着ているものが見るからに暖かそうなジャケットやコートです。 ときに女性は毛皮のものが目立ち、われわれの眼から見ると、女性が毛皮のコートといえばお金持ちだと思う、そういう価値観ですからとても貧乏そうには見えないのです。 写真の一番手前は、商品の陳列台にところ狭しと毛皮の帽子 (ロシア人がよく被っているやつ) が並んでいます。 私は素人でよくわかりませんが、値段もピンキリで高級なものは日本円にして3万円くらいだったと思います。 黒貂 (くろてん) なんてものもあったのかもしれません。 ワシントン条約でしたっけ、野生道物保護の国際条約にひっかかりそうなものが多かったようです。 そのほかにもマフラーやコート類にも毛皮製品は豊富に出回っていました、産地ですから当然といえば当然です。 建物内では換気に問題があるのでしょうか、食品の匂いが充満しています。 これも種類が多い。 寒いので肉類の生臭さは気になりませんでした。 なんとキムチまであります。 ここで日本語で話しかけられました。 それも習った日本語じゃなくて完全な日本人の日本語に聞こえます。 私に声をかけたのは、キムチを売る中年のおばさんだったのです。 詳しい事情は聞きませんでしたが、北朝鮮から来ているということでした。 言葉から推してもと在日朝鮮人で帰国した人か、日本人妻と呼ばれる人だったのかもしれまえん。 ふっくらした顔つき、背格好の人なのでそれなりの暮らしぶりなのだろうとは思いました。 北朝鮮からの距離はわかりませんが、地続きなのですからハバロフスクでキムチを商っていることにさほどの違和感は感じませんでした。 これを買う朝鮮族の住民も少なくないのでしょう。 国家の経済は破綻しても、庶民の暮らしはしっかりとしている。 ちゃんと暮らしを立てている、そういったたくましさを肌で感じるマーケットの風景でした。
vol.9(モスクワ)
モスクワには行く先の方面別にいくつかの駅があります。 都心と近郊を結ぶ通勤線のターミナルは別にして長距離列車の発着する駅にはひととおり足を運んでみました。 写真はそのひとつで ヤロスラブリ駅 です。 別の写真集でも説明しましたが、ロシアでは駅名に行く先の地名をつける習慣があります。 ヤロスラブリというのは、モスクワの北東およそ250kmにある地方都市で、ここに鉄道が造られたのは、ロシア正教の巡礼者を運ぶためだったとされている。 ヤロスラブリへの途中に、聖地セルギエフ・パッサードのトロイツェ・セルギエフ大修道院に巡礼しする信徒が多かった。 この間の路線は、いわば 「巡礼列車」 として敷設が計画されたという。 駅舎は北方の修道院をイメージしており、黒い尖塔(せんとう)は教会の鐘塔、台形の屋根は修道院を模しているという。 鉄道の路線はさらに東に延びていて、はるか極東にまで達しています。 つまりここはシベリア鉄道の終着駅というわけです。 ほか主要駅がただ四角いばかりの駅舎であるのに対して、ここは修道院を模したアールヌーボー建築で、見ていて飽きない趣きがあります。 長距離列車というのは行き先別に一日一本しか出ないものが多く、駅で出発を待つ時間は長くても本数自体は少ないので、この程度のこじんまりした施設で間に合うんじゃないかと思われます。 ロシアにかぎったことではなく、ヨーロッパの駅全般に言える特徴として、長距離列車の駅と通勤電車の駅が分離されている例が多い。 あわただしい通勤客と大きな荷物をもつ長距離のお客は駅での行動がまったく異なります。 分離するほうが合理的だという考え方ですね。 大都市ではそうした機能の異なる駅どうしを地下鉄や路面電車などで連絡する都市内ネットワークがしっかりしているので、不便はないはずです。 ここでも地下鉄と駅前の道路にはトロリーバスが走っています。 そこへいくと、東京駅などは何でもありです。 博多行きの のぞみ号 から山手線まで種々雑多の列車と行動の違う乗客が同じ駅構内を右往左往します。 新宿でも同じことで、こちらは登山客やスキー客と通勤サラリーマンがぶつかりあいます。 上野駅は長距離のホームと通勤電車のそれとが立体的に区分されていて多少マシかもしれません。 写真ではわかりにくいのですが、建物のまわりには荷物を運搬するカートなどが整然とおかれていますし、ポーターも多数常駐しているようです。 運営体制からみると飛行場に近い雰囲気があります。 いずれも通勤客には不必要なもののはずです。 ここへ来たただけで旅愁を感じさせる。 そういう匂いのする駅といえるでしょう。 そうした乗客は通勤定期や販売機から出てくる切符でななく、乗車するコンパートメントまで指定されたチケットを片手に、旅の支度に余念がありません。 ここからのものではありませんが、そうした チケット を私も使いました。 こちらは同じモスクワの レニングラード駅 からの寝台列車のものです。 国営旅行社 インツーリスト が手配してくれたもので、レニングラードまで650km、運賃は17ルーブルと読めます。 これが高いのか安いのか判断できません。 公定の為替レートと実効のレートがあまりにもかけはなれていたからです。 遠くへ旅立つときの雰囲気づくりにも一役買ってくれる、石川啄木の詩ではありませんが ふるさとの匂いが充満した印象深い駅でした。
vol.10(レニングラード)
モスクワから夜行列車で着いた朝のレニングラードです。 市内一番の目抜き通りとされるネフスキー大通りから一本はいった街路の風景が私の一枚。 聞くところによればレニングラードは、写真を撮ったこの時期(1987年)でも人口450万人という、ソ連邦で第二の大都市でした。 近郊を含めた都市圏ではもっと多いのでしょう。 それほどの都会でありながら、目抜き通りから一本はいっただけでこの落ち着いた佇まいです。 写真をとる私の背中が地下鉄もはしるネフスキー大通りになります。 どこへ行ってもソ連邦の顔だとばかりに広く、立派に見せようとするかのようなモスクワに、このような雰囲気はありません。 事前に仕入れた情報では日本でいえば京都のような街だとのことでした。 それは帝政ロシア時代の宮殿があるばかりでなく、共産党の社会主義国家となる前から計画的に建設された、そういう街全体の生い立ちが、平安遷都で都市建設された京都と共通した部分なのだろう。 写真のように沿道に並ぶ建物にもそうした雰囲気を感じました。 あまり背の高い建物はないが、軒の高さをそろえて延々と続く。 そしてそれぞれの建物が西欧の様式であること。 むやみに立派な石造りが競うように並ぶモスクワとな趣を異にしている。 道中央に街路樹と歩道があるが、これはあとから作ったものかもしれません。 馬車の時代のサイズに町が出来ていて、そこをゆったりと人が歩けるスペースも確保してある。 人間の身の丈に見合った気分がして、大した目的もなく散策するだけの旅人をしてほっとさせる。 そういう街並みに思えます。 ここと平行してほぼ同じ道幅の街路があります。 そちらは中央部分が運河です。 写真がないのが残念ですが、そうした道路が幹線道路どうしを連絡するかのように配置されたレニングラードが、着いて半日で好きになりました。 一方、レニングラードは軍施設も多い都市で、(それも海軍) セーラー服姿の若い兵士が街で目立ちます。 都市計画や軍事施設といった堅い話ばかりでなく、レニングラードはロシア帝国時代からの文化の発信地であったことも見逃せません。 19世紀の世界文学イコールロシア文学とまで言う人がいるが、この街はプーシキン、ゴーゴリ、ドストエフスキー他、多くの文学作品の舞台となっている。 そういえばウラジミール・プーチン、現ロシア大統領もこの街の出身だったはずです。 歴史に裏打ちされ、ここだけゆったりと時間が流れるような密度の濃い散策のできる街でした。
vol.11(パリ)
このシリーズにしては珍しく 「観光名所」 の写真です。 パリを訪れたことのない方でも、旅行に関心があれば半分くらいの人はここが何の建物かご存知だと思います。 パリのオペラ座です。 この真下に地下鉄のオペラ駅があります。 パリの地下鉄駅の名前には長ったらしいつづりのものが多いのですが、ここは “Opera” の5文字です。 ここに来るのは実に簡単です。 この近所には有名どころのホテルやレストラン、そしてラ・ファイエットでしたっけ、三越みたいな老舗デパートもあって、日本人に会いたければ、ここにいれば大抵会えます。 「赤い風船」 とか 「LOOK」 とか そういう広告の出た観光バスがとまっていることも多いですね。 そんなパリの 「おのぼりさん御用達」 の場所なのですが、写真を撮ったこの場所は、私にとって人生の転機となるようなきっかけを得た場所でもあるのです。 この写真は1987年の4月末のものなのですが、このとき私は失業者でした。 その後の身の振り方も決まらず滅入ってきたので、気分転換をかねてヨーロッパをほっつきあるいていたのです。 パリ滞在の4日めくらいの時のことです。 何の気なしにここへきてこの風景をカメラに収め、写真右側の (写ってはいませんが) 公衆電話BOXから久しぶりに日本の実家にかけてみたのです。 市内のTOBCCO屋(タバコ屋)で、テレカルト大きくと書いてあるカードを購入してあったので、ふいにこれを使ってみたくなったからです。 電話がつながるなり、実家からの一言。 「すぐ帰って来なさい」、「是非あなたに会いたいと言っている社長さんがいる」 日本を出国して以来この日で3週間あまり 「行方不明」 の状態にあった私ですから、たまの電話に驚くと同時に、せっかく採用を考えてくれている社長さんに、本人は行方不明とも言えず苦慮していたという話でした。 結局、この日がパリ滞在の最終日となり、翌日ロンドンへ移動。 ここでトーキョー行きの片道チケットを手に入れ、3日後にはモスクワ乗換えの便で帰国の途につきました。 本当はさらに2週間くらいは欧州ほっつきあるきの旅を続けたかったのですが、再就職のチャンスをフイにしたくなかったために、行動を起こさざるを得なかったのです。 テレカルトを買ったのも偶然ならば、電話をかけたのも偶然。 幸運な偶然の重なりのことを 「縁」 というのだと私は思っています。 失業したくせにこれといってなにもせず、履歴書を数通つくって知り合いと実家に預けたままで本人は行方不明になっていたのです。 ここでの偶然の電話が、私の社会復帰のきっかけになったといえます。 この意味で忘れられない一枚です。
vol.12(アムステルダム)
市電(トラム)のレールが今回の一枚です。 場所はオランダ、アムステルダム。 市内のどこだったかは忘れました。 もともとアムステルダムはこじんまりした首都で、中心市街地は基本的に徒歩で歩きまわれるサイズです。 しかも市電やバスの路線網が充実しているので、これらの乗り物にちょっと乗っては歩き、また飛び乗る。 そんなことのくり返しで市内を見物して歩けます。 楽しい街だと思います。 中心部は古く伝統的な町並みが保存され、はりめぐらされた運河とあいまってこの街独特の景観をかたちづくっています。 したがって狭いままの道路も少なくありません。 写真はそんな狭い道路にさしかかった市電のレールを撮ったものです。 通常、この街の市電は上り下りの複線なのですが、ご覧のように単線にせざるを得ないほど狭い部分があるのです。 当然のことですが、単線になった部分ですれ違いは出来ませんので、待機する場所はあります。 気になって写真の前後を見て歩きましたが、素人目には信号らしきものは見つかりません。 さらに通りかかる電車の行動を観察しようとその場でねばりました。 結局わかったことは、次のような具合です。 写真前方には複線で見通せる区間がざっと100mくらいあるのですが、反対側(カメラを構えた背中側)にも同じように見通しの利く複線区間があるのです。 上り下りどちらからの電車も、先に単線の区間をはしる先客がいるときは手前の複線区間で待機するのです。 早い者勝ちの単純なルールです。 上下同着のときのルールも多分取り決めがあるのでしょう。 だから信号は不要なのだと理解しました。 しかし、見通しの利かない場所では信号があるのでしょう。 普通の鉄道と異なり、路面電車のレールには基本的に信号電流などは流していません。 人が簡単に踏んでしまうことと、自動車に踏まれっぱなしなので損傷を受けるおそれが高いからなのでしょう。 排水不良の場所では水没の危険だってありますよね。 したがって運行制御には運転手同士の相互確認など、なま身の人に負う部分が多いのだと思います。 その意味では人間味のある機械システムなのだと思います。 それからもうひとつ。写真をご覧になって気づかれた方もおいでかと思うのですが、ざっとこの通りを見通しても電柱が見当たりません。 電車に動力を供給する架線は沿道の建物からのワイヤーで支えて(引っぱって)います。 私が旅した範囲でいうと、ヨーロッパでは当たり前の処置のようですが、こうした方式は町全体で市電のシステムを支えることを皆が承知していて成り立つことだと思います。 こんなことにも気づかされる一枚です。 近年、欧米を中心に (日本でも) 路面電車やトロリーバスの保存や復活の機運が高まっていると聞きます。 市街地でのマイカー規制への代替交通機関として、また排ガス削減効果が見直されたことにもよるそうです。 私も旅先で路面電車を見ると思わず飛び乗ってみたい衝動に駆られます。 市電は、その街独自の雰囲気を演出する重要な要素でもあると思います。 人間くさい乗り物が毎日市内をはしる光景にあこがれめいた感慨を私はもっています。
vol.13(リバプール)
GoogleEarth_.KMZ
位置情報ファイルの起動
マシュー・ストリートの様子を写したを一枚です。 リバプールのマシュー・ストリートでピンとくる人は、ちゃんとしたビートルズのファンということになるんだと思います。 1960年ごろだからもう45年も前の話ですが、この通りの右手にギャバーン・クラブという生演奏つきの飲み屋があって、そこで市内の若者のバンドが演奏していた。 その連中がのちのビートルズだった。 言いかえれば、ビートルズの面々が人前で演奏するようになった原点という訳です。 写真を撮ったのは1987年だったと記憶しています。 ヨーロッパを放浪する旅も終わりに近づいたころ、ロンドンからの日帰り小旅行で訪れてみたのです。 事前に何の計画もないまま着いたので、駅前で客集めをしていたビートルズめぐりの市内観光バスというのに飛び乗って、案内された場所です。 ビートルズのメンバー4人の生家をまわり、行きつけだったと言われる床屋や彼らの歌のモデルになった通りなどをめぐるコースで、最後がここマシュー・ストリートでした。 件のギャバーンクラブは現在、当時の場所からほんの少し移転している。 斜め向かいの建物に移っただけですが、そのことについても結構詳しく案内してくれました。 この場所はリバプール・ラインストリート駅まで歩ける距離にあるため、観光コースはここで流れ解散でした。 “あとはごゆっくり” の一言を残してバスのドライバー兼ガイドをつとめたヒラリーさんは帰ってしまった。 彼女はジョン・レノンとハイスクール時代のクラスメイトだったという人だ。 写真を撮ったのが午後2時ごろだったせいもあって、あたりは閑散としています。 ここは駅だけでなくリバプールの港からも近く、いわば船員さんたちが陸にあがって楽しむ飲み屋街です。 夕方以降に来れば本来の活気がよみがえるのでしょう。 日本の盛り場と違って、けばけばしいネオンや店の看板などはあまりありません。 写真左下にみえるような本日のおすすめメニューがチョークで書かれた立て看板が出ている程度です。 しかし、けだるく間延びした昼間の飲み屋街特有の雰囲気が濃厚に漂う路地であることは肌で感じ取ることができます。 ジョンレノンたち十代なかばの若者が、わずかなギャラで、しかし活き活きと演奏しに通ったであろう場所に立って、私も当時の様子に思いを馳せながら何度も往復した横丁の風景です。
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