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【その1】
vol.1(横浜)
今日からはじめる新しいシリーズです。 旅で訪れた街の印象にのこる写真一枚を紹介し、コメントや思いを書き連ねようというものです。 たった一日の滞在、あるいは乗り換えで数時間だけの街も含めます。 またそのときの私の感じたままを書きますので、一般的な観光地や名所と呼ばれるものとは限りません。 旅人がその目で見た印象です。 これをもってその街を語ったことにはなりませんが、こんな形で記憶にのこることもある。 そのように受け取っていただければと思います。 トップバッターは、横浜です。 ではじめましょう。 1982年ごろに撮った一枚です。 場所は横浜市鶴見区浜町付近。 第一京浜(国道15号)と交差する形で、この「ゴム通り」があります。 当時私は駆け出しの設計担当の技術員で、測量機材を持ってここへ来ました。 横浜というと、中華街や港の見える丘など、エキゾチックな雰囲気の充満した街をイメージしがちですが、当時の私にとっては仕事場。 下水道施設の改良を目的として測量や調査をするため市内を歩き回りました。 横浜は産業都市でもあるのです。 特に写真を撮った鶴見区などは京浜工業地帯の中心で、大小さまざまな工場・事業所が集中しています。 仕事の合間、何の気なしに見上げた道路標識に産業都市の匂いを感じて現場記録用のカメラで一枚、となった次第です。 当時でも横浜市の人口は280万人で、大阪市を抜いて日本でもっとも人口の多い市になったと、神奈川新聞が報じていました。 大阪のほうは都心の人口減少が止まらず、ピーク時には320万人くらいだったところが270万人を割ったとも記事にはあったっけ。 このときの市長は飛鳥田さん。 社会党委員長をやったあと選挙に出て当選した人です。 現在のみなとみらいの地区が、再開発に着手したばかりの時期で、三菱重工でしたか工場施設の取り壊しが進められていました。 現在、横浜は340万人くらいだと思います。 その分だけ街も成長したのでしょう。
vol.2(新宿)
これも1982年か83年ごろに撮った一枚です。 場所は新宿区西新宿付近。 私の記憶に間違いがなければ、現在は東京都庁の議会棟のある場所だと思います。 となりに三井の三角ビル(当時そう呼ばれていた)があるので、容易にその位置が特定できます。 新宿副都心再開発地区などとよばれていたころの写真です。 都庁が有楽町から越してきた現在、副都心じゃなくて新都心というのでしょうか? この後、新都庁の庁舎建設の槌音が界隈に轟くことになります。 写真では、建設予定地を一時的にグラウンドとして利用していて、この日も都下の少年野球チームが試合をしていました。 この隣にも同じようなスペースがあったと記憶しています。 駐車場としても利用していたのかな? 風が強い日はほこりが舞い上がったはずです。 もともとこの場所は、東京都の地所で、淀橋浄水場がありました。 当時私の職場でこの付近で生まれ育った方がいて、浄水場時代の写真を見せられたことがあります。 撮影したのは東京オリンピックのころとのことです。 マラソン競技の撮影に甲州街道へ出たついでに撮った写真だとのことでした。 このころ、京王帝都電鉄が地上をはしっていた時期です。 少年野球のグラウンドの場所は、貯水池がひろがっており、まるで水をかぶった田んぼのような風景でした。 半年いかないと東京はずいぶん変化します。 このことを東京を離れてすぐに実感しました。 そうした変貌を絶えず繰り返す東京。 その経過を象徴するような一枚といえます。
vol.3(ロンドン)
この写真は何度目のロンドン滞在で撮ったものだったか、記憶が定かではありません。 1980年代の中ごろのはずです。 場所はロンドン市中心から少し北にはずれたあたりのはずです。 市内でごくありふれた街路のひとつです。 周囲は静かな住宅地。 とおりの名前は、ABBEY ROAD 同年代のひとならピンと来る。 ビートルズのレコードの表紙にもなった有名な横断歩道です。 メンバーの四人がこの道を横切る姿がそのままレコードのジャケットになっていました。 この近くにあった録音スタジオで制作されたレコードだったのです。 場所の説明はこれくらいにして、ここではロンドンの道路事情というか都市計画の成果を目の当たりにして思ったことを記録したいのです。 言うまでもなくロンドンは英国の首都。 かつては世界各地に経営する植民地のおかげで「日の沈まぬ国」とまで言われた大英帝国の首都だった。 現地ではグレーターロンドン(大ロンドン都市圏)を呼ばれる広域の地域、そうですね、日本でいえば首都圏みたいなものでしょうか。 この人口がざっと1500万人くらいなのだそうだ。 東京駅を中心とした半径50kmの円内で2500万人くらいのはずですから、とんでもない巨大都市というわけではないが、ヨーロッパのなかでは屈指の大都市であることは事実です。 さぞや広壮な都市空間が広がっているのか、と思いきや案外こじんまりした印象を受ける街です。 バッキンガム宮殿前の道路はなるほど広くて立派ですが、皇居周辺のほうが広々している。 そのほかの道路はせまい。 ロンドンの目抜き通りといわれるオックスフォード・ストリートというのがありますが、はっきり言って銀座どおりの半分の幅です。 ところが、写真のような住宅地となると事情は一変します。 きちんと車道が二車線あり、その左右に駐車帯、その外側に歩道。 これがスタンダードです。 東京でいえば田園調布や国立駅南口に広がる計画された街路のイメージでしょうか。 沿道の宅地も広い。 こういった感じの住宅地域が中心市街地を囲む形で幾重にも広がっているのです。 だからグレーター・ロンドンは東京とは市街地の範囲がずっと広い。 名物の赤い二階建てバスの路線や100年の歴史を誇る地下鉄網がこれを支えているといえるでしょう。 パリ市の中心市街地の20区は、ナポレオン?世の時代に都市改造されたため、きわめて整然と広壮なイメージをもつ都会です。 しかし、石造り中心の建築物のせいでしょうか、冷たい印象がありました。 これに比べてロンドンでは、パリに負けないのはバッキンガム宮殿や大英博物館など部分的な建築物にかぎるようです。 そのほかはレンガ造りの建築、塀が多く、温かみを感じました。 また木造の住宅も見られます。 日本から遠く離れたヨーロッパのなかにあって、どことなくほっとさせる雰囲気を演出している、ロンドンの住宅地でした。
vol.4(シンガポール)
海外の街歩きには、地元で貰った地図(観光案内所などでタダでくれる広告入りのやつでたくさん)を片手に、自分の足で歩いてみるのが基本動作だと思っています。 私は、ふつう一人旅をしてきたので何の気なしに歩き出して2時間かかってもなんとも思わなかったが、連れがいるとそうとばかりも言っていられません。 写真は1989年に友人とシンガポールを訪れたときのものです。 場所はリトル・インディア。 到着したあくる日、空港で貰った地図を眺めてホテルからそう遠くないと判断して歩き始めたのです。 私自身、地図を読むセンスは一応そなわっていると自負していたので、一旦地図の上で道すじをアタマに入れてからは何も見ないで目指す先へ向かいます。 友人は少々心配そうでしたが、一人旅のペースでやってみたのです。 結局、そのまま何も見ないで歩くこと40分くらいでしょうか、どうやら目的地の「付近」にたどりつきました。 ここで地図を広げて現在位置を確かめる。 やれやれ着いた。 そこで撮ったのがこの写真です。 今となっては通りの名前も忘れてしまいましたが、この通りの右側すこし奥にインド料理の店があって、香辛料の香りにひかれてカレーを食べたことだけは記憶しています。 バナナの葉っぱにカレーを乗せてあって手で食べる式のものです。 外国人だからとスプーンは付けてくれましたが、そこは雰囲気を大切にせにゃあかんと思って、手で頂ました。 実際のところ、恐ろしく辛い。 味がわかったのは最初の3口めあたりまででした。 あとは口の中の感触、歯ごたえくらいしか知覚できないありさまです。 そのうちにカレーを混ぜる指先が暖かくなるではありませんか! 手遅れですが、とんでもない物を胃の腑に放り込んでしまったと思ったものです。 その後2日ばかり、痛みこそないもののお腹の様子がおかしかったことは事実です。 写真は、いかにも東南アジアの街なか然とした佇まいに思えて選んだものです。 高温多雨の気候にあわせて、歩道の上に建物がかぶさる様式で、外壁のカビた様子がそれらしい。 階上の窓のデザインに住民の民族様式が感じられたりしますし、通気を考慮したつくりになっています。 台湾、香港、バンコックなどでも同様の様式が見られます。背景に写っているような高層ビルが林立し、このような伝統的な街の姿は減りつつあるように思いますが、同じシンガポールのチャイナタウンのように、町並みやその雰囲気を保存しつつリニューアルするなどの工夫でのこして欲しいそういう風景です。
vol.5(下田)
このシリーズとしては珍しく名所の紹介になってしまいました。 静岡県下田市です。 写真はペリー上陸記念碑。 現在の下田市外地の南端、下田公園の北側の湾内を望む場所にあります。 実物は道端にそっけなく立って入るだけのものです。 地図でお気づきの方もいると思いますが、ここから西へ600mほどの場所に了仙寺があります。 1854年4月18日ここにペリーが上陸し、6月17日に下田条約が締結された、その場所が了仙寺です。 このへんの事情が記念碑台座の裏面に刻まれています。 下田には仕事でも行楽でもしばしば訪れたことのある、私にとってはおなじみの街です。 決して便利な場所ではありません、私の住む沼津/三島からでも車で2時間、熱海からでも似たようなものです。 JRの特急「踊り子号」なら東京から2時間半くらいでしょうか。 街のサイズがコンパクトで、大抵のところへ徒歩でいけます。 海水浴場もいくつか徒歩の県内に散らばっていて、子供を連れての行楽にはもってこいの街といえるでしょう。 昭和の後半になって、市街地の東にある柿崎に御用邸が造営され、(須崎御用邸) 年に一度は天皇をはじめ皇族が静養にやってきます。 下田に限ったことではありませんが、伊豆半島は道路事情がよくない。 半島にはいまだに4斜線の道路がほとんどありません。 私が知る範囲でも伊東市の宇佐美から伊東港の区間と宇佐美から山の方へ伸びる区間がせいぜい4km程度、そしてこの下田市の黒船ホテル前の600m程度しかありません。 それだけ地形が険しいということなのだろうと思います。 現在、半島基部の沼津/三島地域とこの下田までをむすぶ高規格幹線道路が建設中です。 といっても開通しているのは中伊豆の修善寺どまりで、あと何年で下田まで快適なドライブができるのでしょうか。 好きな街ではありますが、交通事情の改善が望まれる場所といえます。 公共投資に風当たりの強い昨今ですが、地域交通の基幹をなす道路建設はつづけてほしいものだと思います。 首都圏からも近く人気の衰えない伊豆半島のことです、無駄な投資でおわる心配はないと私は思います。
vol.6(セブシティー)
もともと街歩きが好きな私は、海外の街でも名所といわれる場所より先にその町のマーケットなどを選んで歩きます。 そうした行動の一例としてセブシティーの一枚を紹介します。 ごくありふれたストリート・マーケットの風景です。 八百屋さんが並んだところのようです。 南国らしく様々なフルーツが一番目立つ場所を占めていて、前を歩いただけで果物の香りが漂ってきます。 汗だくでこういう場所をほっつき歩くのですが、並んでいる果物をそのまま搾ってジュースにして飲ませてくれるような店もあって、なかなか楽しい場所です。 セブはフィリッピンで第二の都会だとのことです。 街の名前にシティーとつくのは、北のケソンシティー(マニラ首都圏の一部、ケソン市)と南部ミンダナオ島のダバオシティー、そしてセブ島の中心であるセブシティーの3箇所だけだといいます。 島国であるフィリッピンは、北のルソン島と南のミンダナオ島がひときわ大きく人口も多い。 その中間は瀬戸内海のように中小規模の島が多数ある地域で、その中心がここセブということになります。 国際空港もあるし国の出先オフィスのほとんどがここに集中している。 日本でいえば名古屋や大阪のような位置づけになるんじゃないかと思います。 詳しい統計は知りませんが人口も100万人くらいいるようです。 堂々たる大都市といっていい。 セブは16世紀にマゼランが上陸した土地としても知られていて、世界史のなかで、マゼランは世界一周の航海の途上、フィリッピンの現地人に殺害されたとある。 その現地人とはラプラプという人物で地元では英雄である。 世界の歴史がなんと言おうとフィリッピンの歴史においてマゼラン一行は、悪魔の使いのような連中に他ならず、そいつをやっつけたラプラプはまさに英雄そのものなのだ。 マゼラン本人は死んでも、この地に住み着いたスペイン人は植民地支配を開始すると同時に信仰を持ってきた。 キリスト教(ローマカトリック)です。 セブはその拠点でもあった訳で、市内はもとより郊外のも多数の教会が残っている、しかも古い。 現在でも南のミンダナオ島を除いてフィリッピン人の大多数が熱心なカトリック教徒である。 どこかの教会でお祭りがあれば、人々はそこに向かって十字を切る。 走行中のタクシードライバーまでこれをする。 子供も朝夕のお祈りは欠かさない様子で、勉強も遊びもお祈りのあとだ。 カトリックの信仰のせいもあって、フィリッピン人は総じて子沢山で家族を大切にする。 離婚と中絶を禁じている教えなのだから当然の成り行きで、ここに19世紀末からの米国支配がもたらした奔放な倫理観(道徳観)がミックスされて、現在の世話好きで浮気っぽい国民性が形作られてきたという指摘もある。 もともとスペインゆずりの恋愛好きのところへもってきて離婚できないのだから浮気や不倫は日常茶飯事。 ワイフのほかにガールフレンドをつくってもさほど異常なことだとは思われていないフシがある。 しかし、奥様も子供もしっかり愛している。 そういう雰囲気です。 たまたま乗ったタクシーのドライバー氏にも奥様のほかに3人ほどガールフレンドがいるという。 一見していい加減そうにさえみえる彼らには底知れない “甲斐性” があるのだろう。 家族や親戚が助け合うのはあたりまえで、聞けばマタイトコまでは、なにかあれば面倒見るのが当然だとのこと。 マーケットで日々の買い物をしている人たちも、日本人の金銭感覚から言えば経済的に貧しいのかもしれないが、我々の想像もつかないような豊かで濃密な人間関係のなかでハッピーに暮らしている。 そういう風景を切取った一枚だと思ってもう一度写真をご覧ください。 さっきとはすこし違う風景に見えてきませんか?
vol.7(仙台)
海外と違って国内の街はどうにも個性に乏しい気がしてしかたがありません。 国土の均衡ある発展とか地域間格差の是正とかいろいろなお題目を国 (この場合は国土交通省) が言い出して、そのとおりに予算をつけてきた結果なのだろうと思う。 国庫の補助金を支出する以上、「一定の基準」 に基づいてことがすすめられる。これが行政の公平の原則なのでしょうが、結果として全国どこへ行っても代わり映えのしない町並みが出現する。 だから国内を旅しても写真を撮りたいという意欲がなくなります。 写真は仙台駅のビルです。 このとき、仙台は初めてではなかったのですが、たまに訪れたのだからと、乗り継ぎの時間があったので駅前に出てみた次第。 とくに変わった建物だというのではなく、シャッターを切った理由は余りにも代わり映えがしなくてあきれたからでした。 新幹線のとまる駅というのはどうしてこのようなつくりが多いのでしょうか? ベターッと横に長くて凹凸が少ない。 おなじ形の窓がズラーっと並んでいる。 違いがあるとしても壁の色くらいのものじゃないでしょうか。 新幹線の規格が基本的に同じなので、ほんとにどこもかしこもこのパターンです。 様子の違う駅はホントに少ないと思います。 東京駅などは表口 (丸の内側) にレンガ造りの駅舎があってそれぞれに特徴を出しているのでまだマシですが、仙台はこれがメインの駅舎なのでいっそうつまらない。 街そのものは伊達藩の城下町として発展し、杜の都と称される緑豊かな都会で、他には見られない仙台ならではの景観があふれているというのに、その玄関口たる駅舎が規格品そのもので、のっけから興ざめさせてしまいます。 それじゃあお前はどういう駅なら気に入るんだ、と聞かれそうです。 そうですね、例をあげればわかりやすいかもしれません。 奈良駅や三島駅のように、その街にある歴史的建造物を模した外観の建物がまず好きです。 東京駅、門司港駅のように古い駅舎を保存したタイプ。 こんなのもいいですね。 各地のリゾートには山小屋風のものや美術館のようなモダンな建機津物もあります。 こういうものも、その意図するところにまず興味をそそられてグッドです。 もともとは規格品だったにせよ、文化財に近くなった上野本屋もいいですね。 この手の駅舎は横浜、名古屋や大阪にもあったのですが、取り壊されてなんだか申し合わせたように四角い近代ビルになっちゃいました。 これは残念な気がします。 駅の建物は国が作ったものではなく、JRや旧・国鉄の作品なのですが、その建設費用を自治体が一部負担する例も増えている昨今です、ただ単に他所より大きくて立派というのではなく、駅そのものに観光の目玉の要素を注入し、価値を高める工夫がそろそろわが国でも必要なのではあるまいかと思います。 四角く近代的なビルといっても、京都駅などは美術館を併設するなど、こうした観点からのアプローチを感じさせます。 旅の楽しみを駅舎にも付加する風潮がもっと広まることを願わずにはいられません。 プロ野球・楽天イーグルスの誘致に成功して沸き返り、反対側の東口ですか、再開発に拍車がかかっているそうですね、せめてそちら側にでも 「ああ仙台に着いた」 とだれもが感じるような玄関のデザインをお願いしたい気持ちです。
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